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見切り発車なQueer冒険記

毎日が刺激的な冒険。ディズニーキャストのプログラムはコロナで頓挫中。タイ🇹🇭→物流→CRP🇺🇸

自分が嫌いなあなたへ 〜ラベリングが嫌いな私の話〜

ラベリングって普段意識しますか?よしふじです。

 

突然ですが私の親はあるスポーツのコーチでして。ラベリングに敏感になったのはもう幼少期からだったと思う。「コーチの娘だから当然上手いんでしょ?」「いいなぁ」「え?辞めちゃうの?もったいない」

こういう周囲の言葉に「私は上手くなきゃいけないんだ」というプレッシャーを感じていたのもあれば、勝負事への意味を見出せなかったこともあり(勝っても大して嬉しくなければ負けたら嫌な気持ちがするだけなのに何故戦うのだろうと思っていた…なんて冷めた子供なんだ…)私はそのスポーツが物心ついた頃から好きではなくなってしまった。本を読んだり、歌を歌うのが好きなドド文化系人間だった。

今思えば、好きでもないことを続けるのは時間の無駄という思いと、

それでも続けさせられたおかげで身体能力の基礎は出来たよな…という親への感謝の気持ちが半々なのだが、当時はまあ捻くれていたのもあって(うん、私は小学生の時から捻くれていた笑)

正直練習着を着て歩くのも嫌だった。

なんというか、その格好して歩くことで大して上手くもないクセに「私はこのスポーツをしている人間です!!」と世間に喧伝しているようで嫌だったのだ。今思うと自意識過剰だが、〇〇の娘ラベリングが無ければそこまで拗らせることもなかったのだと思う。

私がラベリングを最初に意識したのは、そんな経緯だった。

〇〇の娘ラベリング。

 

次に嫌になったのは女ラベリング。

練習に行くと、私に聞こえるようにわざと卑猥な言葉を言いながら練習する年上の男の子がいた。今なら反応に面白がってるだけだから聞こえないフリしときゃ良いって分かるけど、その頃は多分いちいち反応していたし、コーチにも言ってたんだと思う(このコーチは親ではない)。だけどコーチも男で、女の子もその時私しかいなくて、ちゃんと注意してくれることはなかった。

ある時練習試合中にボールが私の体に当たった。私は痛かったから少し涙ぐんだかもしれない。でもわざとじゃないのも、試合だからそういうこともあることも分かっていた。だけどいつも卑猥な言葉を言う男の子を注意しないコーチは言った。

「男の子なんだから、女の子にボールを当てちゃダメでしょう。謝りなさい。」

私は思った。え?男とか女とか関係あった?普通に人間として謝るべきだと思うけど、もし私が男の子だったとしたらこの人、「それぐらいで何泣いてんだ」ぐらい言ったんじゃない?それに男とか女とか意識しているのだとしたら、卑猥なことを言い散らす男の子が、明らかに女一人の私をターゲットにして言ってたことぐらい分かってたんじゃないの?

当時のモヤモヤと怒りを言語化したらこんな感じになるが、当然と言うか小学校3、4年生のその時は腹が立ったけど説明が出来なかった。「女の子だから、とか、良いですから」としか言えなかった。

 

その次、中学高校になると生まれたのが”優等生ラベリング”。

なんというか、勉強が出来ると勝手に優等生というくくりで見られがちで。そのいかにも優等生的な三つ編みメガネのイメージが付き纏うのも嫌だし、そこに完璧にハマれない自分も嫌だった。小学校の時からどうしても遅刻癖が治らなくて。それが自分でも嫌だったわけだけど、どういうわけか社会に出るようになってから段々と治り始めた。(ただよっぽどの危機感が無いと、相当緊張していないと今でも無理なのだが)その遅刻癖はでも今思うと、「こんなにダメな人間なんです私。だからそんなにプレッシャーかけないでくださいね」と周囲にアピールしていたのかなと思う。ということの証明として私は、友達とバカなおふざけをして学校の備品を壊しかけ、普段あまり関わりのない先生に「そんな子だと思わなかった」と言われた時はどことなく嬉しさを覚えたものだった。

 

そしてセクシャリティを自認してから今まで続くのが”セクシャルマイノリティラベリング”

 これが怖くて今まで周りにレズビアン(バイセクシャル)だと言えなかったと言っても過言ではない。というか、これは共感してもらえる点が大いにあると思うのだが、

自分がいつから自覚したかなんて正直そんな明確に分かるわけじゃないのだ。

正直なところ私は今でも揺らいでるし、セクシャリティなんて本当に一生一緒に生きていきたい人が出来て初めて後付けで固まるものなんじゃないかと思っている。でも便宜上というか他人に伝わり易くするためとか、初めてお仲間に会う時に共感し合い易いように初恋の話なんてしたりするわけだけど、実際のところどれが初恋かなんて本人の私ですら分かったもんじゃないのだ。好きになったのはどっちの性別もあるわけだし。こう言うと「じゃあバイセクシャルなんだね!」と言われるかもしれないがなんかもう、違う。定義付けされたくないのである。

 

とにかくそんなこんなで私は他人からされるラベリングに対して逃げ続けたいと思いながら生きてきた。しかし、嫌じゃないものもある。それは大学に入って歌のサークルに入ったことで「ああ、あの歌が好きな子ね」と思われるのは全然嫌じゃなかったし、「フロリダのディズニーで働いていた子ね」も良い。「タイに留学していた子ね」も大丈夫だ。エンタメとかディズニーのイメージに反して根は暗いというギャップがあったとしても、そこには自分の意思で選び取って経験を糧にしてきたという自信があるから、そのラベリングは嫌ではないのだと思う。嫌いなラベリングは他人や周囲から当てはめられたもので、自ら名乗る物は武器にすらなるのだ。

 

こういう話をすると、自分を受け入れる、受け入れないの話になりがちだが、そういうのともちょっと違って。自分を受け入れることと、他人から貼り付けられたラベルを受け入れることは似ているようで違う。自分を受け入れる過程で他人から付けられたラベルを受け入れることもあるかもしれないが、他人がそのラベルを振りかざして「自分を受け入れてない証拠だ!」と押し付けることは出来ないのである。

 

きっと誰にでもこういう「周りから貼られたラベル」と「自ら名乗りたいラベル」がある。

でも大多数の人は後者のことを考えることは無く、前者を知らず知らずのうちに受け入れて自ら名乗ったような気でいる。それが悪いこととは言わないが、もしそれが原因で自分のことが嫌いな人がいたとしたら。そのラベルはいったい誰が貼り付けたもの?と一度考えてみて欲しいものである。そこから初めて自ら名乗りたいラベルを考えられるのではないだろうか。