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見切り発車なQueer冒険記

毎日が刺激的な冒険。ディズニーキャストのプログラムはコロナで頓挫中。タイ🇹🇭→物流→CRP🇺🇸

【裏よしふじ】完璧にいつでも幸せな人なんていない

深夜にこんばんは。裏よしふじです。

7月18日の私はこんなことを考えていたんだなーと、備忘録のような、また考えを深める意味でもここに記したいと思います。

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完璧な幸せを手に入れたい。完璧にいつだって幸せでいたい。そう見える人が羨ましい。
『完璧な幸せ』なんて幻想でしかないのに、私たちはしばしばそれを追い求める。
象徴とされるのはやはり結婚。でも考えてみて。自分の親はいつだってラブラブで幸せそうだった?辛そうな姿だって1度くらいみたことあるんじゃない?
だとしても。自分ならば自分が出会う運命の相手ならば。そんな風に期待は捨てきれない。


期待。これは厄介なもの。
希望は持っても期待はするな。自分に対しても他人に対しても言えること。
変えられるのは『私』の心持ちと行動だけ。あとは全て、周りの人の気持ちも、0コンマ1秒先に自分の身に降りかかることでもコントロールはおろか予測さえできない。この世は不確実なことで出来ているのに、『期待』の方が『希望』より不確実性を許していない感じがするのだ。だから期待をしてその通りにならないと、『裏切られた』と感じる。それは、自分が設定した期待で自分を勝手に裏切っているだけにすぎないのに。


完璧にいつでも幸せな人。それを演じるのに最適なツールが現代には揃い過ぎている。instagramTwitterFacebookYouTube。気持ちの闇を隠しこんで素敵な日常やら非日常やらを切り取る。気持ちを押し込めて、別の場所で裏の顔を見せる。寂しさ、妬ましさ、無力感みたいな弱さを見せるのは恥ずかしいこと。それが出来るのは限られた場所で。いいえ、そんな弱い顔なんて私は一個も持ってません。そんなフリをして。そうやってどんどん作る顔の種類が増えていって、自分で自分がわからなくなる。
そうすると、だんだんわからなくなるんだ。自分だって演じてる筈なのに、他人の幸せそうなそれは本物に見えたりする。否、幸せなのは本当だとしても、継続的なものかどうかなんて、『完璧にいつだって幸せ』かどうかなんて誰にもわからないのに。わからないのに、勝手に『この人は完璧にいつだって幸せ』だと期待して、その人が持っているものを手に入れたくなって。必死こいて手に入れてもそれだけでは『幸せ』にはなれないと気づいたとき、勝手に思ってしまうのだ。『裏切られた』と。

 

『完璧にいつでも幸せ』なんて見せかけで、『完璧さ』は幸せの十分条件であったとしても必要条件ではない。だけど、どんなに孤独を好んでも、人は他人のぬくもりや創作物なんかからひとりじゃないことを確認したいもので。他人を感じた時に心の中に灯るあたたかさを『愛』と呼ぶならば、『愛』は幸せの必要十分条件であると思う。ただその愛は、恋愛でなくたって構わない。


私は、まだまだ素直に『愛』を表現できない。他人を、周りの人を、心から両腕で体ごと抱きしめるように、そんな風に愛を与えられない。それは、まだまだ私が私を心から抱きしめてあげられていないからだろう。周りに愛を振りまくあの人が、あの子が、ちゃんと自分で自分をぎゅーって抱きしめてあげられているのか、それは分からないけど。少なくとも自分の中の痛みや、誰かに何かをしてもらった喜びや、頑張りをちゃんと自分自身で分かっているのだと思う。だからその人が欲しい愛を、認めてほしい頑張りを、見て心から思い遣ることが出来るのではないだろうか。

 

完璧な幸せなんて存在しない。だけど私は、此れが愛に溢れた人生だと信じるために、今日も明日も明後日も自分が好きな自分になれるよう行動して、ちゃーんと認めていきたいと思うんだ。