google-site-verification: google5fbee0c03904c157.html

見切り発車なQueer冒険記

毎日が刺激的な冒険。ディズニーキャストのプログラムはコロナで頓挫中。タイ🇹🇭→物流→CRP🇺🇸

テセウスの船 ドラマ版と漫画版考察 ※ネタバレ有り

 こんばんは!よしふじです。

 

 ちょっと前にテセウスの船というT B Sドラマにどハマりしておりました!再放送期間中の2週間、毎晩23時55分にはテレビの前でスタンバイするぐらいにはハマっていて、これぞT B Sドラマ!という演出、音楽の流れるタイミング、俳優陣の演技の上手さに毎回泣かされたものです…ああいうタイムスリップものに昔からどうも弱くて。

 で、どハマりしたので最終回を観た後に原作漫画について調べてみるとドラマとの相違点がいくつかあるということを知りました。そこで漫画版を読んでみて色々と思うところがあったので考察を書いてみます。正直犯人は動機からしても原作漫画版の方が腑に落ちるのですが、ああいう形になったのは民放ドラマの限界といったところでしょうか。(でも家族愛ドラマとしてドラマ版テセウスの船は大好きだということは明言しておきたい!)

 ここからはネタバレ&文体が変わりますので注意!↓

 漫画未読の方はこちらからまとめ買いが出来ます♪

 中古で良ければ読了済のものをメルカリに出しておりますので早い者勝ちでこちらからどうぞ↓

www.mercari.com

 

 

 

 

 ドラマと原作で犯人が違うのは、作品で伝えたいことがそもそも両者で違うからだろうと思われる。ドラマ版は家族愛に一貫して重きを置いているが、原作ではタイトルにもなっている「テセウスの船」に着想を得たタイムスリップミステリーというのが主テーマなのである。だから両方の作品を見て思う感想は「同じ筋書きの全く違う物語」という印象だ。

 

なぜドラマ版では大人のみきおを犯人にしなかったのか?

 正直な話、犯人が一貫して佐野文吾をターゲットにしていたという理由については「自分だけが鈴ちゃんのヒーローでいたかったから」という動機一つの方が納得感が強い。ぶっちゃけドラマ版の最終回で田中正志がぽっと出てきて何年も前に佐野が関わった事件についてつらつら述べられたところで、推理しながら見ていた方は「ちょっとこの作り方はズルくない?」と思わざるを得ない。

 しかし、漫画版のように子供みきおの共犯者が大人みきおならば同一人物なのだから動機はただ一つである。しかも、佐野文吾を田村心が庇って刺されるシーンについてはドラマ版だと心が刺されて亡くなるだけで、最終回の現代でみきおは木村先生と仲良く暮らしていたので田中正志が全ての罪を被ったのだろう。いくら子供のやることだったとして、みきおがお咎めなしというのは少々腑に落ちない。

 一方原作漫画では心は佐野を庇って大人みきおに刺されて亡くなり、佐野は正当防衛で大人みきおを撃った。心も大人みきおもこの時代に本来いるべき人間ではないのでこの結末は妥当に思える。しかもドラマではワープロ記述だった犯行記録がカセットテープであることが確固たる証拠となり、みきおは少年院入りする。つまり彼の人生には悪行を行ったことによる影響がちゃんと反映されているのである。

 それでもなぜドラマでは大人のみきおを子供みきおの共犯者にしなかったのか。それはやっぱり、原作漫画の持つ社会派テイストを家族愛ドラマに持ち込みたく無かったというのが一番大きな理由だと思われる。

 

ドラマ版みきおと漫画版みきおは全く別の人格である

 ドラマ版みきおは佐野鈴への恋心が子供ながらの純粋さで暴走してしまい、そこにたまたま佐野文吾への復讐心を持った田中正志が現れてみきおの恋心からくる佐野文吾への嫉妬心につけ込んだという構図だ。犯行記録がカセット録音からワープロ入力という犯人が特定しづらい道具に変わったおかげでウサギ殺しの犯人も千夏ちゃんや金丸や田中を殺した犯人も(証拠上)うやむやに。

 しかし漫画版みきおは純粋な恋心で鈴ちゃんを独占しようとした訳じゃない。ドラマ版大人みきおは、どんな形であれ鈴を手に入れられたことに多少なりとも満足していたようだが、漫画版大人みきおは鈴を手元に置いておきながら満足出来ず、苛立ち、そして「最初の純粋な頃の鈴が欲しかった」と言うのである。

 漫画版みきおは物事が移り変わることに我慢出来ない。「両親が亡くなって音臼村に来て、大切にしてくれたみんなと別れたくないから春が嫌い。最初の殺人が一番楽しかった。変わらないものが欲しかった。」変わらないものを渇望する気持ちは、きっと彼自身が両親を失ったことによる変化や大人から性的暴行を受けたことによる変化が彼にとって受け入れ難いものだったゆえではないだろうか。

 

漫画版テセウスの船はバッドエンド?

 一連の事件の真犯人が当時11歳の少年A(みきお)だったことが分かり、少年院入りしたみきおがやがて施設を出て太陽の下を歩いている。「殺人犯の家族」にはならない別の幸せな未来を歩む佐野家の知らないところでお天道様の下をみきおが歩くそんなエンディングに薄寒い怖さを覚える読者も多かったのではないかと思う。鈴がまた狙われるのではないか?と。

 しかし、どうだろう。この漫画のタイトルは「テセウスの船」である。

 

テセウスの船」とはパラドックスの一つである

その昔−クレタ島から帰還した英雄・テセウスの船を後世に残すため修復作業が行われた

古くなって朽ちた部品を徐々に新しい部品に交換していくうちに当初の部品は全てなくなった

ここで矛盾が生じる…

この船は最初の船と同じといえるのか?

テセウスの船 第一巻より

 

この後、人間の細胞が全て入れ替わったとしても別人になる訳じゃない、今の自分を作ったのは経験と記憶、過去…と続く。

 

 みきおはあくまで出会った時の鈴が欲しかった。だけどそんなもの二度と手に入らない。移り変わらないものなどこの世に存在しないからだ。漫画版大人みきおは木村先生という、犯罪を犯した自分でも(そうとは知らず)常に肯定してくれる存在を手に入れてしまったばかりにそれに気づくことが出来なかった。だけど大人になった漫画版子供みきおはどうだろう。少年院に入り、出所しても週刊誌に追い回される生活。みきおの人格が経験によって歪んでしまったのだとすれば、また経験によって変わることもあり得るのではないかと希望を持った目でこの結末を受け止めたいと私は思うのである。

 もちろん、漫画版で問題提起したいことは分かる。暴力の連鎖は大人で止めなきゃいけないと思うし、何人も殺しておいて少年院に数年だけ、では被害者遺族も報われない、でもじゃあ何歳から責任能力を問えば良いの?とか答えの出ないことだらけだ。世の中のありとあらゆる場面に矛盾、パラドックスが存在する。その中には変わり続けるものと変わらないものが存在する。

 これは、人間が変わる可能性に懸けた漫画版原作と、時空を超えて記憶も消えても変わらない人間の核や家族愛があるということにフォーカスを当てたドラマ版、双方セットで完成するパラドックスの物語なのである。

 

-----------------------------------------------------------------------------------

 抜けている視点等もあるかもしれませんが以上がぱなこのテセウスの船考察でした◎

 このドラマ・漫画が好きな方、ぜひぜひ語りましょう♪